ブックタイトルなぜ芭蕉は至高の俳人なのか

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概要

なぜ芭蕉は至高の俳人なのか

15 | 第一章 芭蕉までの一五〇年の歩み尊みことを祖とする。日本武尊は第十二代天皇である景けい行こう天皇の皇子である。東とう征せいの帰り、甲か斐いの国の酒さか折おりで次のように詠んだ。新にひば治り筑つく波ばを過ぎて幾夜か寝つる   日本武尊 常ひ たち陸の国の新にいばり治、筑波を過ぎて、ここまで幾晩寝たことであろうかという意味だ。これに答えて、御み火ひ焼たきの老お きな人が歌を継いで、次のように詠んだ。日か日が並なべて夜には九ここの夜よ日には十日を   御火焼の老人 日数を重ねて夜では九夜、日では十日ですよと言ったのである。日本武尊はこの老人を厚く賞したという。 和歌を「敷しき島しまの道」というのに対して、連歌はこの故事によって「筑波の道」と言われる。後に連歌の准じゆん勅ちよく撰せん集が作られたときは『菟つ玖く波ば集』という名が付けられたが、これもこの日本武尊の故事によって「つくば」という語が用いられたのである。 このように和歌を別々の人間が半分ずつ詠むのを連歌という。もっとも日本武尊と老人が詠んだのは短歌ではなく、旋せ頭どう歌かの上の句と下の句である。旋頭歌は五七七五七七である。短歌の上の句と下の句を別々の人間が詠んだ例として、いちばん古いのは『万まん葉よう集しゆう』の中にある。佐さ保ほ河がわの水を塞せき上げて植ゑし田を   尼あま作る刈れる早わさ飯いひは独りなるべし   家やか持もち続つぐ