ブックタイトルなぜ芭蕉は至高の俳人なのか

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概要

なぜ芭蕉は至高の俳人なのか

一 俳諧の発生と室町時代の俳諧 | 16「佐保川の水を塞きとめて作った田を」と尼が詠み、「それを刈り入れた早稲の飯を食べるのは一人だろう」と大おお伴ともの家持があとを続けたのである。なんだか意味がよく分からない歌だ。日本武尊の故事のほうが意味もよく分かるし、なによりも作者の身分が違う。旋頭歌をつないだものであって、短歌の上の句と下の句を継いだものではないが、後の連歌師たちが日本武尊を自分らの祖と考えたがったのは無理もない。連歌と俳諧は、どう違うのか こうした立派な祖を持つ和歌や連歌に比べると、俳句は祖も分からないし、いちばん古い作品も分からない。もちろん、勅撰集はおろか准勅撰集のようなものも、一度も作られていない。俳句は俳諧の連歌の発句であるが、これは悪わろき連歌であり、狂きよう連歌であるから、作った人も自分の名を残そうとはしなかったし、周囲も書き留めようとはしなかったのだろう。ふざけたものでその場限りのものだから、誰がいちばん先にそういうものを作ったのかの記録はない。俳句の起源が分からないのは当然である。 現在では五七五で季きが入っていれば俳句だと認識されているが、実は発句と呼ばれているものには連歌の発句もあり、これは俳諧の発句(すなわち俳句)とは厳密に区別されていた。したがって、『菟玖波集』の発句の部に次のような句があるが、これらはあくまでも連歌の発句であって、俳句の古いものとして扱うことはできない。