ブックタイトルなぜ芭蕉は至高の俳人なのか
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なぜ芭蕉は至高の俳人なのか
17 | 第一章 芭蕉までの一五〇年の歩み月の色に秋のなかばぞしられける 藤ふじ原わらの為ため氏うじさゆる夜は風と月とに更ふけにけり 救ぐ済さい法師日は入りてもみぢにのこる夕かな 二に条じよう良よし基もと入るとみて又月いづる雲間かな 周しゆう阿あ法師 これらは雅なものであって連歌であり、俗な俳諧とは区別されなければならない。 小こ西にし甚じん一いち氏は、『俳句の世界 発生より現代まで』(講談社学術文庫)において、俳諧は宗そう祇ぎ(一四二一?一五〇二)以前からあったとして、次の宗祇の作品を挙げておられる。花匂ふ梅は無む雙さうの梢こずゑかな 宗祇 宗祇は傑出した連歌師であって、俳諧師ではないのだが、この句は「無む雙そう」という漢語が使われているので俳諧だというわけだ。和歌、連歌の雅やかな世界では外国からの言葉である漢語は使わない。和歌、連歌でやらないことをやれば俳諧であるから、これは俳句ということになる。伝統的な日本の韻文に外来語を使うということは、今に置き換えてみれば、「花匂ふ梅の梢こずえはワンダフル」というような、外国語を入れたアンバランスな滑稽さがあるのだ。これ以前にもこのような俳諧の発句はあるはずだが、記録に残っていないので、今残っている限りでは、この句がいちばん古い俳句ということになる。