ブックタイトルなぜ芭蕉は至高の俳人なのか

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概要

なぜ芭蕉は至高の俳人なのか

一 俳諧の発生と室町時代の俳諧 | 18俳諧の祖 宗祇の「花匂ふ梅は無雙の梢かな」は、現在残っている資料で言えば、いちばん古い俳句と言えるかもしれないが、宗祇を俳諧の創始者とするわけにはいかない。宗祇は純正連歌の代表的な作者であるし、連歌は俳諧よりずっと立派な文芸で(なにしろ准勅撰集が作られているくらいだ)、世間から尊重されたものであるから、宗祇を俳諧の祖などと言ったら、宗祇は、自分はそんな下品なものに関わりは持っていないと怒るかもしれない。 それに、宗祇がはじめて俳諧的な句を作ったわけではなく、宗祇以前にふざけた連歌(俳諧の連歌)は数多くあったはずなのだ。記録に残っていないだけの話なのである そこで、はっきり形に表われたものとして、現在では山やま崎ざき宗そう鑑かん(??一五四〇年頃)と荒あら木き田だ守もり武たけ(一四七三?一五四九)の二人をもって俳諧の祖としている。宗祇より少し後で、室町時代末の人たちである。祖を二人としなければならないのは、宗鑑の生没年が不明で、守武とどちらが先か分からないからであるが、二人の果たした役割も違うからである。山やま崎ざき宗そう鑑かん 宗鑑の功績は『犬いぬ筑つく波ば集』を残したことである。この書は元々は『誹諧連歌』とか『誹