ブックタイトルなぜ芭蕉は至高の俳人なのか

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概要

なぜ芭蕉は至高の俳人なのか

39 | 第一章 芭蕉までの一五〇年の歩みて、口にしやすい句だ。多くの人に親しまれ、引用されることが多かったのもうなずける。 芭蕉が『笈の小文』で触れているのは次の句である。これは?? とばかり花の吉野山   貞室 花の吉野山の見事さは筆舌に尽くしがたい。部分的に捉えれば小さなものになってしまって吉野の雄大さは表現できないし、全体的に捉えれば錦のごとくなどというように概括的になってしまう。そこで、貞室は「これはこれは」と感嘆の言葉を示し、こういう以外に何も言えないほど見事な吉野山だと言っているのだ。芭蕉はこれを「打ちなぐりたる」と言っているが、確かに荒っぽい力強さがある。歌いくさ文武二道の蛙かはづかな   貞室 蛙かわず合戦という言葉がある。蛙が群れをなし、争って交尾することで、多くの蛙が鬨ときの声を上げて戦っているように見えるところから生じた言葉だ。また、『古今和歌集』の仮名序に、「花になく鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」とあって、蛙は歌を詠む生き物の代表のように言われている。つまり蛙は戦いもするし、歌も詠む。文武二道というわけだ。老の波もあらいそがしの師し は走す哉   貞室「老の波」は寄る年波のことで、年を取っても師し わす走は忙しいという意味だが、「あらいそ