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概要

日米開戦の正体

50(注:衆議院議員)らが東ひがし久く邇にの宮みや稔なる彦ひこに「この三月の陸軍定期異動で、板垣征四郎、石原莞爾両中将が予備役になる由」と告げていますし、また二月十九日には緒お方がた竹たけ虎とら(当時朝日新聞主筆)が東久邇宮に「石原莞爾の件はどうなったか」と問うています。しかし、東條陸相との確執が強く、予備役にされます。現役を退いた石原は一九四一年四月に立りつ命めい館かん総長が新設した国防学講座の講師として招待されますが、時の首相の東條を批判しているのですから、弾圧に遭います。ピーティの『「日米対決」と石原莞爾』は次の内容を記しています。「彼は『戦争史大観』を書く。しかし、出版予定であった中ちゆう央おう公こう論ろん社しやから、遺憾ながら出版は出来ないという通知を受ける。立命館大学から出版した『国防論』も絶版にしたと連絡を受ける。一九四二年九月、立命館大学を辞職する。職がなく、公的言論活動の基盤がなくなった石原は故郷の鶴つる岡おかに帰る」当然ですが、憲兵と特高警察の圧力が強まったために大学を辞職して故郷の山形県に帰っています。石原莞爾の評価にはさまざまなものがありますが、第二次大戦の見通しについては完全に石原莞爾の見方が正解です。彼の広い人脈からして、当時日本の中枢にあった人物はほとんどが彼の論を知っていたと見られます。◎米内光政(よないみつまさ/一八八〇‐一九四八)海軍軍人、政治家。海軍大学校卒。日露戦争に従軍。第二艦隊司令長官、連合艦隊司令長官などを歴任し一九三七年、海軍大臣、海軍大将となる。四〇年には首相に就任するが、日独伊三国同盟を求める陸軍と対立し、半年で総辞職。終戦の前年から海軍大臣に復帰し、戦争終結と戦後処理に当たる。写真協力/国立国会図書館「近代日本人の肖像」