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概要

日米開戦の正体

64て果して長期戦に堪えうるや否や慎重に研究するの要あり。午前中政府の説明もありたるが之を心配す。〔孫崎注:若槻は著書『古風庵回顧録』(読売新聞社)で次のように記述。「〔陛下に〕こうした状態で戦争することは実に憂慮に堪えません、ということを言上した。(略)私の陳述中の合間に、東条がしばしば発言して、心配には及ばぬ旨を言う」〕岡田:物資の補給能力につき充分成算ありや心配なり。先刻来政府の説明ありたるも未だ納得するに至らず。〔孫崎注:岡田啓介は、ロンドン海軍軍縮会議時「軍拡による米英との戦争は避け、国力の充実に努めるべし」という信念に基づき海軍部内の取りまとめに奔ほん走そう。一九三四年から三六年首相。また、『岡田啓介回顧録』(中公文庫)で次のように記述している。「米内は、御前に出てから、(略)ドカ貧になってはいけない、といった(略)。若槻さんも大東亜共栄圏の確立とか、そういった理想にとらわれて国力を使うのは危険だという、筋の通ったいい意見だった。(略)軍令部総長の永野修身は、少しどうかしていた。陛下から、『アメリカと戦争をやって勝つことが出来ると思うか』と御下問があったので、『勝つことはとてもおぼつかないと存じます』◎若槻禮次郎(わかつきれいじろう/一八六六‐一九四九)大蔵官僚、政治家。帝国大学法科大学(後の東京帝国大学法学部)卒業後、大蔵省に出仕。事務次官を経て一九一一年、貴族院議員。蔵相、内相を歴任する。二六年、首相(第一次内閣)。ロンドン海軍軍縮会議では首席全権。三一年、第二次内閣を組閣するが満州事変で退陣。和平派として日米開戦に反対した。写真協力/国立国会図書館「近代日本人の肖像」