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概要

日米開戦の正体

78して蛮名を馳はせ、松岡外務大臣時代には外務省顧問の白しら鳥とり敏とし夫お氏であった。彼らの統制のよくとれたことにも驚嘆したが、その資金の豊富さにもたまげた。大おおゲサに言えば、〝酒しゆ池ち肉にく林りん〟の宴うたげを催していたからである。(略)しかし、私のほうの陣営は、局長の私、アメリカ局第一課長の結ゆう城き司郎次君、稲いな垣がき太郎事務官(故人)それと局長付の佐さ東とう武雄の四人きりだ。第一、省内が前述のごとく、松岡外相時代はもちろんのこと、その後任になった豊とよ田だ貞てい治じ郎ろう外務大臣の時代でも「枢軸派」によって制圧されており、彼らのスパイといって失礼なら、シンパ(〝長いものにまかれろ〟〝流れに身をまかせる〟)で充満していたから、絶対に信頼できる部下だけに頼って、仕事を進めるしかない。(略)当時の日本を事実上治めていたのは、内閣総理大臣ではなく陸軍軍務局長であった。「協調外交」を推進し、戦後総理大臣となった幣しで原はら喜き重じゆう郎ろうは「日華事変から太平洋戦争にかけて、私はただ悶々の日を送る他はなかった」と記述しています(幣原喜重郎『外交五十年』中公文庫)。当時の外務省は重鎮すら排除していたのです。(2)対中軍事行動、ドイツとの連携を主張していた若手「枢軸派」の牛うし場ば 信のぶ彦ひこ氏の見方「省内が『枢軸派』によって制圧されていた」ことについて、若手枢軸派として勇ましく活動し