ブックタイトル仕事に効く 教養としての「世界史」

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仕事に効く 教養としての「世界史」

24孫だったという説もある。新羅、百済や唐はもちろんのこと、南方や西方から来た人とか、そう言えば、ペルシア人もいたという松まつ本もと清せい 張ちようの小説もありました。東とう大だい寺じ の大仏の開かい眼げん法ほう要ようの導師をつとめたお坊さんは、インド人でした。そういうオープンな時代ですから情報はたくさん入って来る。ところで、その頃、唐を支配していたのは誰かと言えば武ぶ 則そく天てん(則そく天てん武ぶ 后こう)です。アメリカをヒラリー・クリントンが大統領になって仕切っているようなものです。武則天は690年に自ら皇帝になりますが、660年に、天皇、天てん后こうという称号をつくり出して事実上唐を取り仕切っていました。それまでの中国では、一番偉い人は皇帝であって、皇后はその正妃にすぎません。皇帝とは始し皇こう帝ていがつくった称号ですから、たいへんバリューがあります。唐は西暦600年頃から始まりますが、中国はおおよそBC200年から約800年間も秦しんの始皇帝が構築したグランドデザイン(基本構想)で治められてきたわけですから、皇帝という称号にはいわば約800年の権威があります。しかし、皇后という称号は始皇帝がつくったわけではないので、屁への河かつ童ぱ みたいなものです。100対1くらいの重みしかない。始皇帝の皇后は名も知られていない。そこで武則天は何を考えたか。「夫の高こう宗そう(当時の唐の三代皇帝)は意志薄弱で統治ができないから、私が旦那を動かして