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爪燈録

佐伯先生インタビュー

『爪燈録』とは、「完本 密命 巻之二」で惣三郎がしたためる日誌です。
「爪に火を燈(とも)す」――つまり、苦労して倹約した日々の記録。

佐伯先生も、幾多の苦難を乗り越えながら『密命』を書き続けました。
『密命』シリーズが始まってから、約15年。
改めて、その激動の軌跡について伺いました。


 

<上>

 

『密命』は、僕にとって初めての時代小説です。
なんの手立てもなく、技術もなく、
司馬遼太郎先生、藤沢周平先生、山本周五郎先生ら、
諸先輩方の築き上げてくださった土台の上で書き始めたのが『密命』です。
『密命』を書き始めた1990年代の後半は、バブルが弾けた直後。
時代小説界では、峰隆一郎さんの作品のような、
精密な描写のバイオレンスが流行していました。

 

そういう時代に書き始めて、心のどこかで、
これまでとは違った時代小説にしたいと思っていました。
本能的に、バブルの時代とは違った表現を、剣豪小説でしたかったんです。

 

その想いをちゃんとこなす力量と経験、江戸時代に対する知識は、
当時ありませんでした。
ありませんでしたが、もし「佐伯時代小説」に個性があるとすれば、
この『密命 巻之一 見参! 寒月霞斬り』に、すべて出ています。

 

ただし、その個性を昇華する力を、まだ持っていませんでした。
いま読むと、力だけでねじ伏せているようなところもあるんだけど、
ねじ伏せ方がまったく誤っているようなところもあるんですね。
今回「完本」として手直しさせてもらうのは、自分にとって大きな、得がたい機会です。
『密命』は、僕の出発点であり、帰着点でもある。
手直しできるところは全部、徹底的に手直しをしたいという覚悟でいます。

――15年前からの変化

 

時代小説を読んでくださる主な世代は、中高年の男性たちです。
15年前の中高年の方々は、自信を持って世間を引っ張っていらっしゃいました。
しかし、バブルの崩壊、9.11、リーマン・ショック、中東の戦争と、
アメリカ流の力任せの理念に疑問符がついていくという時代背景のなかで、
当然のことながら、時代小説も変わらざるを得ません。
力だけでは読者を引きつけることのできない時代になってきたのではないでしょうか。

 

時代小説は、ともすると現代小説よりも、
その時代の雰囲気を投影している分野だと思います。
先ほど挙げた峰隆一郎さんは、自信をもって突き進むあの時代を共有できていた。
でも僕はできなかった、あとから遅れてきた作家だから。
僕が、先輩作家と同じことをしても生き残れなかったんです。
いろんな挫折があった、自信を喪失した、男の場もなくなった、
そういう時代に何を求めて生きていけばいいのか、というのが、
やはり『密命』の一番のテーマなんです。

 

『密命』の舞台は、江戸時代が始まって100年ごろの、享保年間。
作品の冒頭、惣三郎は剣術の師・綾川辰信に、こんなことを言われます。

 

「おぬしは百年ほど生まれるのが遅かったわ。おまえの荒々しい斬撃は、
戦場往来の時代なら二千石もの、いや五千石でも抱えられたかもしれん。
じゃが戦乱の時は遠くに去った」

 
(『完本 密命 巻之一 見参! 寒月霞斬り』より)

 

戦乱の世は遠く、その時代の人々を結びつけたものは剣ではなく、
家族の情、信頼感であったと思うんです。

 

 

 

――いま一度、世に問いたい

 


愛犬・みかんと

当初『完本 密命』のカバーイラストのモチーフは、巻之一が「刀と袴と印籠」、
巻之二が「草鞋の上で気持ち良さそうに寝ている子犬」となる予定でした。
「『密命』が剣豪小説であり、家族小説である」ということを
ひと目でアピールするためです。
しかし本文の手直しをしていく過程で、順番が違うんじゃないかと思った。
『密命』が剣豪小説であることを否定はしません。
しかし僕にとって「剣戟」のシーンは、色々ある要素のひとつに過ぎません。
どの要素を抽出したら、現代の読者に受け入れてもらえるだろうか?
そう考えたとき、核家族化が進み、あるいは東北の地震や津波などの天災で
バラバラになった家庭、地域などをもう一回むすび、つなげるものがあるとしたら、
家族、友人、恋人、あるいは感情と温もりを共有できる生き物ではないか
と思ったんです。
だから、『完本 巻之一』のカバーイラストは、
僕自らの希望で犬の絵に変更しました。

 

 


完本 密命 巻之一 見参! 寒月霞斬り

 

 

全26巻というのは非常に長く、読むのには膨大な月日と労力がかかります。
読み方によっては、きっとまったく別の小説にもなりうる。
だから『密命』を初めて読む方だけでなく、
かつて読まれた方にももう一度「完本」を読んでいただければ嬉しく思います。
旧版では、時代の要請もあって「剣豪小説」として売り出し始めたけれど、
まったく違う「家族小説」というアプローチでいま一度、世に問いたい。

 

 

 

――特に「団塊の世代」に読んでいただきたい

 

「完本 密命」は、特に団塊の世代の方々に読んでいただきたいと思っています。
15年前、団塊の世代の方々は、力強く時代を引っ張っていらっしゃった。
経済の第一線に立っているビジネスマンには、
時代小説を読んでいる暇がなかったろうと思います。
それよりは、利を生む何かを必死に追い求めていらっしゃった。
会社の利益を上げること、株価を上げること、そして給料を上げること……。
それらを追求し、実現されてきた方々が、15年経ってリタイアして、
さてどこに場を求めるか。
これからの余生を何に使うか、お考えになったとして、
さて何しよう? と不意に迷ってしまう人が、実は多いのではないでしょうか。

 

そのとき、図書館でも書店でもいいのですが、
時代小説という活字文化が日本にはあるんだ――ということを、
ぜひ再発見していただきたい。
そして少しでも憂さを晴らしてほしい。
一日一日をどう暮らそうか? と立ち止まり、呆然としてしまう第二の人生で、
いっとき小説に没入していただいて、
次の生き方を見つけてくれるようなことがあれば、
作家としてこんなに嬉しいことはありません。

 

 

 

――惣三郎の脱藩が転機だった

 

惣三郎は、巻之一と巻之二の間で、藩の財政立て直しに奔走します。
しかしその後、脱藩して、長屋暮らしに戻ることを決意する。
つまり、帰属する社会・背景から離れたわけです。
このとき、書き手である僕の視点もガラリと変わりました。
武士であった、ビジネスマンであった主人公が浪人になると、
視点がものすごく低くなって、地べたのレベルから江戸の社会が見えてきた。
見ていかざるをえなくなったんです。
それが、26巻続けられた力の源泉であったとも思います。

 

『密命』が単なる剣豪小説だったら、10巻と持ちませんでしたよ。
こうして「完本」として手を入れることもなかったでしょう。
別にもう一度読まなくてもいいでしょう、
主人公が完全無敵のヒーローであるならば、
勝敗は最初から分かっているわけですから(笑)

 

「完本」にするからには、再読する意味のあるものにしたいですね。

 

<下>につづく

 

 

佐伯泰英 さえき・やすひで

一九四二年、北九州市生まれ。九九年、初めて執筆した時代小説『密命』シリーズ(本書)で一躍、国民的作家となる。他のシリーズに『吉原裏同心』(光文社文庫)、『居眠り磐音 江戸双紙』(双葉文庫)、『古着屋総兵衛』(新潮文庫)、『鎌倉河岸捕物控』(ハルキ文庫)、『交代寄合伊那衆異聞』(講談社文庫)など多数。二〇一四年、時代文庫二〇〇冊を突破した。

 

写真/言美歩
取材・文/編集部