ブックタイトルなぜ芭蕉は至高の俳人なのか

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概要

なぜ芭蕉は至高の俳人なのか

23 | 第一章 芭蕉までの一五〇年の歩み この句の意味はよく分かる。特に、守武は伊勢神宮の神官の家に生まれた人だから、元日の伊勢神宮となれば確かに神代を思わせる雰囲気があろう。この句が連歌ではなく、俳諧である理由は、「元日」という語が漢字音であるからだ。和歌や連歌では、外国から伝わってきた音である漢字音は使わない。落花枝にかへると見れば胡蝶かな   守武 これが俳諧である理由はすぐ分かる。「落花」も「胡蝶」も漢字音である。そして、諧謔性もある。つまり、「破鏡重ねて照らさず、落華枝に上り難し」(『景徳伝灯録』)と言われるごとく、あとへ戻らないものの喩えに使われる落花が枝に帰って行くというのだ。そして、よく見たらそれは胡蝶だったというオチが付いている。凍らねど水ひきとづる懐紙かな   守武 これは、はてなと感じさせるクイズ的な句だ。「閉づる」には凍るという意味がある。「水ひき閉づる」とは水面が凍るということだ。したがって、この句の五七は、「凍らないけど凍る」ということになるので、はてなということになる。一方、懐紙は連歌や俳諧を書き留める紙であるが、作品が完成すると水みず引ひきで綴とじる。つまり、水引でとづるのは懐紙だということになる。つまりこの句の五七の部分では、凍らないけど凍ると言っておいて、凍るという意味の「水引とづる」を、水引で綴じるという意味に読み替えて、それは懐紙だとつなげているのだ。これで凍らないけど凍るというクイズみたいなものの答が成