ブックタイトルなぜ芭蕉は至高の俳人なのか

ページ
28/44

このページは なぜ芭蕉は至高の俳人なのか の電子ブックに掲載されている28ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

なぜ芭蕉は至高の俳人なのか

二 戦国以後――松永貞徳と貞門俳諧 | 26というほどであった。その中でも細ほそ川かわ幽ゆう斎さい、里さと村むら紹じよう巴はの指導を受けたことは大きい。細川幽斎は当時の大文化人であり、和歌、歌学の権威であった。また、里村紹巴はこの時代を代表する連歌師である。この二人の直接の弟子であるということはおのずから貞徳に大きな権威をもたらした。貞徳自身も和歌、歌学、連歌、古典研究の上に大きな能力を発揮し、幽斎没後は和歌、歌学の第一人者となった。 貞徳が俳諧の中心となって活躍したのは六〇歳から八〇歳頃までの晩年であった。俳諧史の上での貞徳の業績は、それまで知識人の座興、言い捨てに過ぎなかった俳諧を、文芸の一つとして確立したことである。貞徳は俳諧の式目(ルール)を説いた著書『俳諧御ご傘さん』の序において、「抑そもそも、はじめは、俳諧と連歌のわいだめなし。其の中よりやさしき詞のみをつづけて連歌といひ、俗ぞく言げんを嫌はず作する句を俳諧といふなり」と言っている。この俗言とは、和歌、連歌には使用されない俗語、漢語である。つまり、会話言葉や外国語ということになる。こうした俳諧だけに用いられる語を俳はい言ごんというが、貞徳は俳諧を、俳言をもって作る連歌と規定し、平易卑俗なところが和歌や連歌より時代に適しているとして、俳諧の存在を世に広めた。俳諧を独立した文芸へ 貞徳が『俳諧御傘』の序において、俳諧と連歌の区別はないと言ったり、雅な言葉を使