ブックタイトルなぜ芭蕉は至高の俳人なのか

ページ
29/44

このページは なぜ芭蕉は至高の俳人なのか の電子ブックに掲載されている29ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

なぜ芭蕉は至高の俳人なのか

27 | 第一章 芭蕉までの一五〇年の歩みうのが連歌で、俗語、漢語を嫌わずに使うのが俳諧だと言ったのは、なんとかして俳諧を独立した文芸と認めようとする努力であった。先述したように、今日では、五七五で季の言葉を含んでいれば、すべて俳句と考えられていて、連歌を意識することはないので、当時の俳人たちの苦労がなかなか理解できないのだが、江戸時代の俳人にとっては俳諧を連歌とはっきり区別し、しかも並ぶところまでもっていくというのは悲願であった。 しかし、その方法は難しい。俳諧は俗なものであるから、先に『犬筑波集』の作品を紹介したときに示したようにどうしても下品になる。これでは教養ある人や女性は参加できない。と言って、俳諧を上品なものにすると、それは連歌に戻ってしまって、俳諧ではなくなってしまうのだ。つまり、上品な俳諧ということはあり得ないのだ。 それに対して、連歌は、俳諧の歴史の上で空白と言ってもよい室町時代末から江戸時代初頭へかけても、庶民はもちろん、武将や公家たちによって楽しまれていた。戦国武人の連歌で例を一つ挙げれば、明あけ智ち光みつ秀ひでが信のぶ長ながを襲う直前と言ってもよい時期に行なったものが有名である。光秀が発句、西坊が脇わき、紹巴が第三を作っている。時は今天が下しる五月かな   光秀水上まさる庭の松山   西坊花落つる流れの末をせきとめて   紹巴 もっと続くが第三までを示しておく。これは天てん正しよう十年(一五八二年)五月二十八日、京