ブックタイトルなぜ芭蕉は至高の俳人なのか

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概要

なぜ芭蕉は至高の俳人なのか

33 | 第一章 芭蕉までの一五〇年の歩み状態になったのだ。ちなみに芭蕉は貞徳の弟子の北きた村むら季き吟ぎんの弟子である。貞門派の俳諧を読む 貞門派の俳句は、言葉遊び的な要素が強いから、その句を理解するのは、クイズを解くような楽しさがある。ほころぶやしりもむすばぬ絲ざくら   野の々の口ぐち立りゆう圃ほ「ほころぶ」という語には、蕾つぼみが開き始めるという意味と、衣類などの縫い目がほどけるという意味とがある。ここではその両方の意味を使っている。「尻も結ばぬ」とは、縫い物をするときに糸の末端に瘤こぶを作らないことだ。そういう糸で縫えば、糸が停とまらずするすると縫い物がほころんでしまうだろう。そういう裁縫の上の言葉を使いながら、糸桜が開き始めた、糸桜の糸の尻を結んでないからほころんできたのだろうと言っているのだ。春立つやにほんめでたきかどの松   斎さい藤とう徳とく元げん これは、「にほん」のところに、日本と二本とを掛けてある。門かど松まつが二本あるということと、日本中が目め出で度たいということが重ね合わされているのだ。ひがしより世はをさまるき春日哉かな   高たかの瀬せ梅ばい盛せい これは、東のほう(江戸)から世の中が治まるということだが、「おさまる」に「丸き」