ブックタイトルなぜ芭蕉は至高の俳人なのか

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概要

なぜ芭蕉は至高の俳人なのか

二 戦国以後――松永貞徳と貞門俳諧 | 36芋豆や月も名をかへ品をかへ   重頼 これなどは典型的な貞門風の面白さの句だ。先の西武の句でも触れたが、仲秋の名月(陰暦八月十五日)は芋(里芋)の出来るときなので、芋名月と言う。そして、十三夜(陰暦九月十三日)は豆の出来るときなので豆名月と言う。つまり、この句は、月も芋名月とか豆名月とか名が変わるという意味だが、それを「名を替え品を替え」という慣用句を用いて言っているのだ。「名を替え品を替え」はさまざまな手を尽くすことで「手を替え品を替え」とも言う。日本文学のもっとも大切な素材である月を捉えて、妓ぎ女じよの手て練れん手て管くだのごとき言い方をしている滑稽さである。やあしばらく花に対して鐘つく事   重頼 謡曲の『三み井い寺でら』に「やあやあ暫しばらく、狂人の身にてなにとて鐘をば撞つくぞ、急いで退のき候へ」というセリフがある。これを利用しながら、この句は、花に対して鐘を撞くことを控えろと言っているのだ。桜が咲いている期間を少しでも延ばそうとするのは日本人共通の意識である。雨はもちろん、少しの風でも花を散らしそうで心配の種なのだ。そういう気持ちからすると、鐘の音であっても、その刺激で花が散りそうなのだ。花が咲いているときは鐘も撞かないで欲しいのである。謡曲の詞し章しようをもじって使うという貞門俳諧的な手法ながら、単なる言葉遊びを脱して、花を惜しむ気持ちがよく出ている。花は芳よし野の伽が藍らん一つを木の間哉   重頼