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概要

日米開戦の正体

46石田はさらに、ニューヨーク時代に面識のある高たか松まつの宮みやから天皇へ訴えてもらおうと、資料を持参して、宮を訪ね、二時間以上にもわたって陳情した。どこからも反応はなかった。そして、唯一の反応が石田が三みつ井い 高たか公きみに呼ばれたことである。石田はその場で辞表を書いてくる。石田禮助は「日本が米国と戦争するのは無謀だ」と進言して、三井物産の社長を辞めたことになります。もっとも、石田社長が高松宮へ行なった選択が正しかったか疑問が残ります。昭和天皇は、「高松宮は海軍将校で、戦争開始論に与くみしている」と見ています。石田禮助は戦後一九六三年から六九年まで国鉄総裁を務めています。石田が国鉄総裁に就任した後、国会の初登院での言葉が「粗にして野だが卑ではない」です。石田は、麻あざ布ぶ中学から東京高等商業学校(現・一橋大学)に進み、三井物産入社後はシアトル、ボンベイ、大だい連れん、カルカッタ、ニューヨークの各支店長を経験していますから、決して「野」ではないと思います。今日、「粗でもなく(東京大学など立派な教育を受けています)、野でもなく(国会や中央官庁を仕事場にしています)、でも卑(対米、権力に隷属する)」が横行しているのを見ますと「粗にして野だが卑ではない」の言葉◎石原莞爾(いしはらかんじ/一八八九‐一九四九)陸軍軍人。陸軍士官学校から陸軍大学校に進む。最終階級は陸軍中将。関東軍参謀として満州事変と満州国建設を指揮したが、後に東條英機と対立し日米開戦前の一九四一年三月、予備役に編入される。現役引退後は軍事思想家として評論や執筆、講演活動に励み、『世界最終戦論』『国防政治論』などを著わす。写真協力/国立国会図書館「近代日本人の肖像」