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概要

日米開戦の正体

48が『秘録 石原莞爾』(芙蓉書房出版)に次のように書いています。石原は(略)昭和十五年十一月〔京都師団長の時〕上京し陸軍中央部を訪れて暴挙を厳しく戒いましめて阻止に当たった。石原は力説する。「東條軍閥は石油がほしいので、南方諸島を取ろうとしている。石油のないことは始めからわかりきったことだ。何がない、かにがない、だから他国の領土に手をつける、これは泥棒ではないか。石油がなくて戦争ができないなら、支し那な事変は即時やめるがよろしい。(略)ヤツらは今南方に手を出そうとしているが、日本海軍には日本本土防衛作戦計画はあるが、南方地域防衛の作戦計画はない、南だ北だ、支那海だといって諸方面の防衛に当れば、本土はガラ空だ。(略)日本の都市は丸焼けになるぞ。必ず負けるぞ」一九四一年九月六日の御ご前ぜん会議(御前会議とは、天皇臨席で重要国務を審議する会議。この日の御前会議で、開戦の方針を決定)後、石原はすでに予備役でしたが、十月に上京して、陸軍省兵務局長田た中なか隆りゆう吉きち(田中は東京裁判で上海事変を引き起こしたと証言。石原が引き起こした柳条湖事件◎東條英機(とうじょうひでき/一八八四‐一九四八)陸軍軍人、政治家。陸軍大学校卒業後、スイス、ドイツに駐在。一九三七年、関東軍参謀長に。陸軍次官を経て陸軍大臣。対英米開戦を主張する。四一年十月、陸相と内相兼任で首相となり、日米開戦を決定。戦時総動員体制を敷くが敗色濃厚となり辞職。東京裁判でA級戦犯とされ絞首刑。写真協力/国立国会図書館「近代日本人の肖像」