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概要

日米開戦の正体

66五人もの首相経験者が反対論を述べています。この会議での重臣の発言にはさまざまな評価があります。戦前、戦中、戦後を外交官として活躍した重しげ光みつ葵まもるは『昭和の動乱』(中公文庫)の中で次のように批判しました。この重要なる宮中の会合において、戦争に対して反対をなし、また国家の前途に対して深い意見を表示したものはなかった。(略)最高主権者たる天皇に、直接意見を申し出づる絶好の機会が与えられたるに拘わらず、何故国家の重臣が、若し戦争に反対であったならば(彼等は反対であった)、赤裸々に且つ大胆にその所信を披瀝しなかったのであろうか。実はこうした考えは別の外務省員も持っていました。先にも挙げましたが、当時外務大臣秘書官でかつ政務局六課(北米担当)課長として日米交渉を担当した加瀬俊一は『平服の勇気』(鹿島研究所出版会)の中で「やがて交渉不調となり、重臣会議や御前会議があわただしく開かれた。私は重臣達が自重を進言することを密かに期待したが、格別の意義もなく廟議はアッケなく決定してしまった。重臣はみな内心は戦争に反対だったが、それを公言する勇気がなかったのである。(略)平服の勇気に乏◎広田弘毅(ひろたこうき/一八七八‐一九四八)外交官、政治家。東京帝国大学法科卒。一九〇六年、外務省入省。駐オランダ公使、駐ソ大使などを務めた後、三三年に外相、三六年に首相就任。「協和外交」を唱える一方で軍部を抑えられず、結果的に日中戦争拡大に加担する。敗戦後、A級戦犯に指定され東京裁判では文官で唯一の絞首刑判決。写真協力/国立国会図書館「近代日本人の肖像」