ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

日米開戦の正体

79 第一章 真珠湾攻撃を始めたかったのは、誰なのか?ていた人の言も紹介しておく必要があると思います。第二次大戦前「枢軸派」若手として省内を闊歩し、戦後は「米国重視派」のドン的存在の牛場信彦氏は『外交の瞬間』(日本経済新聞社)で次のように書いています。昭和十二年当時は六月に近衛内閣が発足し、国内には近衛人気が沸騰、東亜思想がほうはいとして起こっていた。「見よ東海の空あけて」〔孫崎注:いま幾度かわが上に 試練の嵐哮るとも断固と守れその正義 進まん道は一つのみ ああ悠遠の神代より 轟く歩調うけつぎて大行進の行く彼方 皇国つねに栄えあれ〕という歌ができ、国全体が「進まん道は一つのみ」という空気であった。(略)当時は「満州国」の建設が進んでおり、中国にある英国その他の権益を排除しなければならない、というのがこのころの外交政策であり、(略)「日本の対外姿勢が、国際連盟脱退から海軍軍縮条約の破棄へと、(略)挑戦的性格を帯びるにつれて、外務省の内部でも『外交刷新』を唱える、いわゆる『革新派』が台頭してくる。日本の対外的使命達成の上で、現状維持勢力としての英米の存在を障害とし、ソビエトの革命政策を危険とみる人びとにとって、既存の国際体制の打破を標榜ぼうする独伊との提携という考え方は次第に有力化してくる」。これは『外務省の百年』の一節だが、僕も当時、こういう考えにく◎日華事変 支那事変とも。日中戦争の、当時の日本側の呼称。一九三七年七月七日の盧溝橋事件を契機とする、日本と中国の間の戦争。宣戦布告のないまま、日本軍は北京・上海・南京・広東と戦線を拡大、全面戦争に突入した。四一年十二月八日の日米開戦とともに蒋介石政権が宣戦布告したため、一般的には三七年から四一年までの期間を指す。