ブックタイトル仕事に効く 教養としての「世界史」

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概要

仕事に効く 教養としての「世界史」

20時代を少し遡さかのぼると、韓半島はいくつかの小国が争っていた状態から、高こう句く麗り、新しら羅ぎ 、百くだ済ら の三国に収しゆう 斂れんされつつありました。ただ、半島の最南端付近は、そこは加か羅らと呼ばれる地方でしたが、そこにはまだ小国家群が存在していました。中国はどうかといえば、華北には俗に五ご胡こ十じゆう 六ろつ国こくといわれる遊牧民の国家群があり、華南には漢かん民族の国がありました。この二つの勢力が南北に分かれて、長い間争乱を続けていました。しかし、気候の温暖化もあって、しだいに統一の気運が芽生えてきたのです。その当時の日本( 倭わ と呼ばれていました)はどのような国であったのでしょうか。歴史的に残されている記録が、軍事的な事件が多いことを考えると、少なくともユダヤ人のように交易や商売で生計を立てていたとは思えません。これは、たいへん粗っぽい議論で、まだ確証はありませんが、当時の倭は、中世のスイスのような一種の傭よう兵へい国家であったのではないか。スイスの場合は、深い山国で貧しく、けれどみんな腕っぷしが強かったので、国をあげて傭兵となり、パンを得ていました。その名なごり残が、今日でもヴァチカンの法皇庁の警備を担になっているスイスの兵士です。倭は後進国でした。韓半島や中国が分裂状態で、各おの々おの助っ人を求めていました。傭兵のニーズが高い。特に九州に近い百済からのリクルートは強かったと思います。倭は要請に応じました。そうすると、絶え間ない傭兵出撃に備えて、韓半島に傭兵たちの駐屯集落があって