ただひたすら植物を愛し、
その採集と研究、分類に無我夢中。
莫大な借金、学界との 軋轢もなんのその。
すべては「なんとかなるろう!」
貧苦にめげず、不屈の魂で知の
種を究め続けた
稀代の植物学者を描く、感動の長編小説。
明治初期の土佐・佐川の山中に、草花に話しかける少年がいた。名は牧野富太郎。
小学校中退ながらも独学で植物研究に没頭した富太郎は、「日本人の手で、日本の植物相(フロラ)を明らかにする」ことを志し、上京。東京大学理学部植物学教室に出入りを許されて、新種の発見、研究雑誌の刊行など目覚ましい成果を上げるも、突如として大学を出入り禁止に。
私財を惜しみなく注ぎ込んで研究を継続するが、気がつけば莫大な借金に身動きが取れなくなり……。
文久2 (1862年) | 土佐の佐川村(現在の高知県高岡郡佐川町)に生まれる |
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明治9 (1876年) | 佐川小学校を自主退学 |
明治14(1881年) | 第二回内国勧業博覧会見物のため初上京 |
明治17(1884年) | 二度目の上京。東京大学理学部植物学教室への出入りを許される |
明治21(1888年) | 『日本植物志図篇』刊行開始 |
明治22(1889年) | 『植物学雑誌』上で、日本で初めて新種「ヤマトグサ」に学名を付ける |
明治23(1890年) | 「ムジナモ」発見。植物学教室を出入り禁止になる |
明治24(1891年) | 研究のため私財を注ぎ込み生家が傾く |
明治26(1893年) | 帝国大学理科大学助手となる |
明治32(1899年) | 『新撰日本植物図説』刊行開始 |
明治33(1900年) | 『大日本植物志』刊行開始 |
明治40(1907年) | 『増訂草木図説』刊行開始 |
明治43(1910年) | 東京帝国大学理科大学助手の休職を命じられる |
明治45(1912年) | 東京帝国大学理科大学講師となる |
大正5 (1916年) | 借金返済のため池長孟より援助を受ける。『植物研究雑誌』創刊 |
昭和2 (1927年) | 理学博士の学位が授与される。新種のササを発見、のちに「スエコザサ」と命名。 |
昭和9 (1934年) | 『牧野植物学全集』刊行開始 |
昭和14(1939年) | 東京帝国大学講師を辞任 |
昭和15(1940年) | 『牧野日本植物図鑑』刊行 |
昭和32(1957年) | 永眠(数え95歳) |
朝井先生の筆力は圧巻です。
富太郎が生き生きと描かれ、支える二人の妻の度量の広さに驚きます。
一生追い続ける宝物を見つけた人は強い。
情熱が突っ走る、ものすごい大作に震えが止まらない。 圧倒された。
少年のまま大人になった富太郎。
「なんとかなるろう」
そうだ、そうだ、なんとかなるなる!!と
お国言葉が良い味を出してくれます。
土佐の「いごっそう」らしい生き方は痛快でした。
幼い時から採集のために山をたつくり(土佐弁:走り回る)、
自然と共に生き、強靭な肉体も得られたのではないでしょうか。
陛下から賜った「あなたは国の宝だよ」の言葉に、
読者は自分のことのように体が震えるだろう。
好きな事に一生懸命取り組む姿は尊い。
好奇心の泉のような少年の、壮大な生涯が描かれる。
研究者であり実践者、その人生の熱量はすごかった!
支える家族の愛も素晴らしかった。
新種のササに最愛の妻の名前を…。
莫大な借財を陰で支え続けた夫人の健気さが少しは報われたことに安堵した。
生涯、変わらず植物を愛した少年の清き心に、
明治初期の日本人の原風景を感じられた。
その業績が、多くの後進たちの道標になったように、
規格外の生きざまを描き切った本書は末長く読み継がれるだろう。
1959年、大阪府生まれ。2008年、『実さえ花さえ』(のち『花競くらべ』に改題)で小説現代長編新人賞奨励賞を受賞してデビュー。2014年『恋歌』で直木賞、『阿蘭陀西鶴』で織田作之助賞、15年『すかたん』で大阪ほんま本大賞、16年『眩』で中山義秀文学賞、17年『福袋』で舟橋聖一文学賞、18年『雲上雲下』で中央公論文芸賞、『悪玉伝』で司馬遼太郎賞、19年に大阪文化賞、20年『グッドバイ』で親鸞賞、21年『類』で芸術選奨文部科学大臣賞と柴田錬三郎賞を受賞。他の著作に『落陽』(祥伝社文庫)、『白光』など。